歯の詰め物が破損した。担当の先生はお休みだったが、その日対応できる先生で予約を取らせてもらえた。割と大きく、十人ほどの歯科医が登録しているプライベートプラクティス(歯科医院)。義父母は十年以上通っている歯医者だし、前回初めての時もとても良い対応だったので信用していた。
待合室で待っているとアシスタントが来た。綺麗なブロンドヘアで小柄、ぽっちゃりとしたイギリス人の女性。女性というより女の子という方がイメージが近い。もじもじとあどけない様子で、随分と自信のなさそうな小さな声で名前を呼ばれた。「日本語の名前だから発音に自信がないのかな」そんなことを考えながら案内してもらった。2階の診察室に案内されると、医師も若そうだけど、こちらは真逆に随分と抑圧的。ある種フレンドリーではあるけれど、ぶっきらぼうな話し方をする女性。とはいえ自信がありそうなのはお医者さんだしまぁいいかと思う。
違和感を感じたのは二人のやりとり。アシスタントは引き続き聞こえないくらいの声で、YesとかThank youとか囁く程度。施術されている間も二人のやり取りには妙な間と緊張感があったから、「アシスタントが医師にビビってるのかな」などとずっと考えていた。それほど変な空気だった。
スムーズにケアは終わり、受けた内容と料金を確認してサイン。ドアのフックにかけていたコートを取り、その横の椅子に置いてあったバッグを取って部屋を出た。扉を閉めてすぐ、中から二人の大爆笑が聞こえた。
気持ちが凍りつく。さっきまでヒソヒソぽつりぽつりと話していた二人が扉を閉めるなり大笑いしているのだ。こんなの何年ぶり?だけど、ああこれだとブワッと思い出しては込み上げる嫌な感覚。学校や職場でよくいじめっ子がやるやつだ。とても不快だった。あまりの露骨ぶりに、ドアを開けて「何かありましたか」と聞こうかと思ったけどやめた。
1階へ下り、待合でコートを着てニット帽をかぶり身支度して、受付で支払い。不快を引きずってたので気分転換したかった。とても天気が良かったので、すぐ近くの芝地にあるベンチに腰を下ろした。
プラクティスを出て30分ほど経った頃、義母から電話がきた。「受付から電話があって、歯科医がカナコが私のプライベートのペンを持って帰ったと言ってるらしいんだけど、、、」
は???念のためポケットや鞄を確認したけど勿論ない。コートやカバンはサインした時そこにはなかった(入り口のドアのところにあった)し、唯一あるポケットはデニムで、セーターで隠れている。歯科医に「ここにサインして」と指差しで言われ、彼女に手渡された、モンブランなどではない普通のペンで、彼女のすぐ隣、肩が触れ合うかもという距離でサインした。セーターをめくってポケットに入れようとすれば、あまりに不自然で誰もが気づく。
はっはー…
「ないですないです。実はまだすぐ近くにいるし、行ってきます。」義母に伝えてプラクティスにソッコー戻った。持っていないと電話で回答するより、手間でも堂々と顔を出したいと思った。なぜなら私は盗みの容疑をかけられているのだ。私が間違えて持って帰ってしまったのではないかと思っている可能性もあるけど、あの大笑いと、それに30分の間に色々していたはずで(混雑していたし次の患者だっていた可能性も高い)、30分経ってからペンが無い=あの女が持って帰ったというのは、あまりに不自然だ。
入り口を入ってすぐの受付カウンターの向こう6畳くらいのスペースに、5〜6人の女性アシスタントらがたむろしていた。全員の注目を浴びる中レセプショニストに「義母にお電話いただいて。ペンですよね?私持ってないんですけど?カバンなど確認しますか?」と尋ねると「あ、持っていらっしゃらないならいいんです。わざわざ戻ってきてもらって悪いわ。」とレセプショニスト。(彼女はいつもいい人だ)
レセプショニストの後ろに目をやると、一番奥でさっきの自信のなさそうなアシスタントが窓枠に腰掛けて、ポケットに手を入れて足を組んでいた。先ほどの自信のなさそうな様子と随分と雰囲気が違う。あえてしっかり目を合わせると、顔を真っ赤にして引き攣らせた。今まさに皆にその話していたと言わんばかりか、動揺した表情。売られたケンカはできるだけ買わない主義。自分は礼儀正しくいたいと思うので、特に何も言わずにプラクティスを出た。
ペンを盗んだ犯人にされる?しかも義理両親に電話まで。屈辱的、いや恥辱的だった。「ペンくらい自分で買えるわボケ!」もちろんポイントはそこじゃないんだけど、腹の中で怒る。きっと発端は医師だろうが、自分に自信がなく、そういうのに乗っかったり、悪口を言いふらす様な方法でしか、信頼を得たり居場所を作れない人、いるいる。自分を慰めるために腹の中でそんなことを思いながら、何とか気を紛らわせようとしたけれど、人の悪意に触れ悲しかった。家に帰ると絶対に義父母が心配してくれ、その優しさに泣いてしまいそうだから、落ち着くまでしばらく歩き続けた。
これが人種差別的なものなのか、ただいじめてやろーなのか分からないけれど、少なくとも自分の国の歯医者ではなかなか起こらない。悔し涙をにじませながら歩く道中、夫の言葉を思い出し、言い聞かせていた。夫と結婚を決めた時、夫がじっくりと丁寧に説明をしてくれたのだ。彼は母国のイギリス以外、日本含め6カ国に住んだことがある。
「海外に住むということは、自分の国ではする必要のない嫌な経験をする時が必ず来る。本当に残念なことだけれど、例えばイギリスにもまだ人種差別、アジア人蔑視をする人もいる。ただアジア人だからだけじゃないよ。イギリス人の僕も色々な嫌な経験をしてきた。日本で日本人から嫌な思いをさせられたことも何度もある。大事なのはその時、自分が嫌われ者だと思わないこと。そういうことをする奴らは、君という一人の人間に対峙しているのではなく、訳のわからない思想に取り憑かれている looser(敗者)なんだ。」
結局帰ったらいつもお昼寝をする時間の義父も寝ずに待っていてくれ、冷静に話しを聞いてくれて、結局私は話しながらポロリとしてしまった。義母は暖かい紅茶とクッキーを用意してくれて、自分ごとのように(私以上に)怒っていた。
夫は帰宅するなり話を聞いてくれ、なんてくだらない奴らだと苛立った様子で「彼女がボールペンなんて盗むわけないだろ。彼女は日本人で、すごいクオリティーの文房具がたくさんある文房具大国なんだぞと言ってやりたい」と言った。笑った。
ほんの少し欠けた歯の詰め物(セラミックなどではない)を入れ直してもらった診察料は156ポンド。この日のレートで 29,283円。お勉強は高い買い物だった。

